何でも平等と言うけれど。理解力や能力に限界や個人差はあるのか?を考えてみた

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理解力に限界や個人差はあるのか?と言うことについて考えてみる。
いきなり結果から述べるが、僕はあると思う。

複数の人間が同時に同じことをスタートして、その習熟度を見ると個人差が現れることからも能力の個人差は歴然と存在する。

人間は平等だが能力は不平等なのだ。
当然理解力の遅いものはハンデを背負うことになるが、そこで嘆いていても物事は前進しないわけで…
能力が劣る者は人と違うことをする必要がある。
ではどうするか?
数例挙げてみたい。

人の数倍努力する。

理解力が劣っていれば人の数倍努力する必要がある。
能力の遅れを回転力で補う方法だ。
人の数倍やってやっと人並み、謙虚さと忍耐力が必要だ。
また自分の適性に合致していない努力をすれば徒労に帰する恐れがあるので見極めが非常に大事となる。

人に媚びる好かれる

嫌われなければ食いっぱぐれることはないだろう。
人は独りでは生きて行けないものである。
能力に自信の無いものはプライドを捨てコバンザメの様に強いものに寄り添って生きるのもひとつの方法だ。
寄らば大樹の陰である。

自分の得意分野を作る

人の能力は画一的でない。
ひとつの分野では能力を発揮できないとしても違う分野では遺憾なく能力を発揮出来るかも知れない。
自分が何に興味があって何が得意か、周囲の反応も参考にしながら様々なことにトライし、探し出せば良いと思う。
見つかれば儲けもの。案外得意なことは自分の足元に隠れているかも知れない。
みんなと一緒でなければならない理由などないのだ。

まとめ

理解力や人の持つ能力は残念ながら生まれつき不平等なものだと思う。
自分の持つ特性を熟知して人生の荒波を潜り航海を続けたいものだ。
何をつまらないことを、根性で乗り切らんかいっ!!と言うお叱りも受けると思うが、それも立派な個性的な能力ですから(笑)

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